吸入鎮静法としての歴史

吸入鎮静法としての歴史

吸入鎮静法

吸入鎮静法は、意識を失わせない程度に吸入麻酔薬を鼻マスクから吸入させる方法です。通常は、20~30%の低濃度笑気を70~80%の酸素とともに吸入させます。

今日では、吸入鎮静法では、すべて笑気のみ使用されています。

笑気吸入鎮静法がわが国に導入紹介されたのは、昭和47年から48年頃で(雨宮、久保田、金子、高北らが鎮静法を日本に紹介)、当時は、笑気アナルゲジア(笑気無痛法)と呼ばれていました。それというのも1940年代から1960年代にかけて、アメリカではランガおよびモーンハイムら、デンマークではルーベンら 一部の人々が積極的に笑気アナルゲジアを実施していたのです。

本法が、日本に導入された当初、多くの(あるいは一部の)歯科医は、アナルゲジア(無痛)という言葉にまどわされて、無痛的にすべての歯科治療が行なえると誤解してしまったのです。当時は無痛法とか、迷もう麻酔とか訳されていました。(高濃度の笑気を吸入し、意識がもうろうとしている間に、痛みを与えず処置を行なう方法。)したがって痛みを伴う歯科治療(たとえば抜歯や抜髄)にも局所麻酔を併用しようとせずに、無痛を得ようとして、つい笑気濃度を上げてしまったのです。

その結果、高濃度の笑気を患者に吸入させることになり、患者の意識を消失させてしまったり、あるいは意識を消失させないまでも非常に不快な気分にさせてしまったのです。たとえば80%以上の笑気を吸入させたとしても、笑気は麻酔作用がきわめて弱いので、抜歯などの処置では、痛みを完全におさえることは不可能(かなりの鎮痛作用はありますが)ですし、低酸素状態となって、(空気中には、約20%の酸素と80%の窒素ガスがある)チアノーゼが出現したりして、生命の危険が高まります。痛みに対しては、笑気の吸入で取り除くのではなくて、局所麻酔を使用すべきなのです。

以上のような経験からアナルゲジア(無痛)という言葉を使用するのは問題であると考えられるようになり、1968年、ランガはrelative analgesiaを提唱しました。

一方、モーンハイムは20~40%の低濃度の笑気吸入では完全な無痛は得られないことからanalgesiaという用語は適当ではなくhypoalgesiaという用語を提唱しました。1972年(昭和47年)、モーンハイムの弟子のべネットは、笑気吸入による方法は、鎮静を主目的とするためconsious sedationという用語を提唱し、同年に、米国歯科医師会は吸入鎮静法および静脈内鎮静法を含めた鎮静法をpsychosedationが適当と発表しました。

このような経過からわが国でも精神鎮静法という表現をするようになり、笑気吸入鎮静法(inhalation sedation with nitrous oxide and oxygen)という言葉が用いられています。つまり、現在では、笑気の吸入によって無痛を得ることではなく、低濃度の笑気を吸入させることにより、多少の鎮痛効果(副産物として得られる)と患者の緊張を軽減し、気分の良い状態にさせることを主目的と考えています。

前述しましたように、笑気は古くから存在する麻酔剤であり、その麻酔作用はきわめて弱く、かつ、副作用がほとんどありません。低濃度の笑気を吸入しても、生理的機能の抑制はほとんどなく、安全性のきわめて高いものです。

本法を紹介する書によっては、笑気吸入鎮静法を施行するについては、全身麻酔のトレーニングが必須であると書かれたものがありますが、私は、使い方を誤らない限り、歯学の教育を受けた人ならすべての歯科医が使用してさしつかえないと考えています。その理由の一つは麻酔作用がきわめて弱く、副作用がほとんどない安全なものだからで、そのため現在でも、使用されているのです。

もう一つの理由は、機器の進歩です。現在では、すべての笑気吸入器において、最高50%あるいは機種によっては70%以上の笑気が流出しないようになっています。(したがって患者は30~50%の酸素を吸入することになり、空気中の酸素よりも高濃度の酸素を吸入していることになります。手術後、酸素テントに入っている時と同じくらいの酸素を吸入しています。ちなみに、英国では救急車に50%笑気、50%酸素ボンベが積まれており、トレーニングを受けた消防士が心筋梗塞の患者などに車中でこれを吸入させて病院に移送しているそうです。)

一方、もし酸素ボンベが空になったりすると100%笑気を吸入することになり、その結果、無酸素状態となり生命の危険性が高まりますが、そのような場合、機器が作動して、酸素が流れなくなると、笑気も流れないようになっています。(昭和40年代は、まだ現在のように機器が改善されていませんでしたので、無酸素状態で植物人間になったり、死亡したケースもあったそうです。)もし仮に100%機器を信用できないとしたら、全身麻酔のトレーニングを受けたか否かによって、患者に対する対処の仕方は大きく異なりますので、専門医の方がはるかに安全なのは、言うまでもありません。

さて、そろそろ終わりにしますが、最後に私の主張したいことがあります。それは、「低濃度笑気の吸入による効果は鎮静作用なのか」という点です。「鎮静」という言葉を辞書で引くと「しずまり落ち着くこと」とあります。

笑気の吸入を体験された方はすでに理解されていると思いますが、笑気吸入の効果は前述の1844年の「笑気ガス楽しみ会」にあるような「一種の愉悦的なもの」だと私は思っています。英語ではこのような気分をユーホリックというそうです。今風に言えば、お酒に酔って、多少理性を抑制した「ハイ」になった状態に近いと言えると思います。歯科治療を前提にした笑気の吸入と、教育的あるいは経験としての笑気の吸入は多少異なるものと思っていますが、私が長年、臨床実習で学生に笑気吸入鎮静法として笑気の吸入を教育してきた中で「麻薬よりもいい」と言った学生が何人かいました。つまり私は「笑気吸入鎮静法」という用語は適当ではなく、単純に「笑気吸入法」と称した方が都合が良いと考えています。このように考えると、笑気の吸入法を理解しやすいのです。

笑気の吸入は、むしろお酒を飲んだ時の「気分」に近いと思えます。もちろん笑気とお酒はまったく異なりますが、人によって、お酒も気分が悪くなるので「飲めない」人がいるのと同様に、笑気を吸入すると「気分が悪くなる」人が5人に1人あるいは10人に1人必ずいます。このような人には、ムリして笑気を吸入させることはしません。別の方法を考えればいいのです。私の経験ではお酒を飲めない人はたいてい笑気の吸入をいやがります。反対にお酒の好きな人は笑気の吸入を喜びます。(でも、中には例外もいて、私の妻などはお酒を全く飲めませんが笑気の吸入を好みます。)

以上のことから、当院では、「笑気吸入法」という言葉を用いるようにしています。前述したように笑気の「鎮痛効果」を考慮すると、むしろ「笑気鎮痛法」と表現したいとさえ私は思っています。

笑気は吸入後2~3分すると「効いて」きます。濃度を一定にしていますので、そのままの気分が持続します。鼻から吸って鼻から呼出します。つまり、肺の中で血中に移行するのですが、吸入を止めれば笑気は再び肺から体外に排泄されるので、数分経過すればほとんど醒めます。(文献によれば、吸入を止めて30分後で80%以上排出されますので、帰宅には車を運転しても大丈夫です。)

以上は、雨宮義弘「笑気吸入鎮静法の反省」日本歯科評論 昭和51年6月、
および、久保田康耶 他編集「歯科麻酔学」昭和55年第3版 精神鎮静法の項より引用、医歯薬出版(株)
および、鈴木長明「笑気吸入鎮静法(笑気アナルゲジア)の覚醒に関する研究」日歯麻 誌、第2巻第1号 1974年より引用しました。

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