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当院のルーツ

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平成29年1月13日に68歳で永眠いたしました、当院創始者:星谷昭三をご紹介いたします。
今後も創始者の意思を引き継ぎ、地域のホームドクターとして、また常に時代のニーズに合った歯科医院として研鑽してまいります。

創始者(故) 星谷 昭三(ほしや しょうぞう)

趣味

昔から無芸大食の私ですが、学生時代は陸上部で短距離の選手でした。歯科医院を開業してしばらく(30歳を過ぎて)テニスを始めました。当時は、週に2~3回位プレーしていましたが、最近はテニスに対する情熱が少なくなり、月に1~2回程度となりました。
数年前から(昔からの友人の勧めで)俳句を作るようになりました。今は川柳に転向したわけでもありませんが、主に日本歯科新聞の川柳欄に川柳を投句し、時々採用されています。他には、昔は走るのが好きでしたが、今は年で走れませんのでもっぱら近くの川沿いを歩いています。

プロフィール

1949年8月9日生まれ

1968年
神奈川県立平塚江南高校卒業
1974年
神奈川歯科大学卒
1976年
聖ヨゼフ病院歯科口腔外科研修
1978年
神奈川歯科大学麻酔学教室医局長退職
1978年
星谷歯科医院開設
1978年
東邦大学医学部麻酔学教室にて研修
1988年
神奈川歯科大学麻酔科非常勤講師
1992年
東邦大学医学部麻酔科学教室客員講師
1995年
神奈川歯科大学麻酔科非常勤講師
1988年
医療法人社団星谷歯科医院新設

資格

  • 医学博士
  • 歯科麻酔認定医
  • 日本歯科麻酔学会代議委員
  • 神奈川歯科大学非常勤講師
  • 日本糖尿病協会歯科医師登録医
  • 日本口腔外科口腔癌検診協力医
  • ISO9001認証資格歯科医院
  • 臨床研修医指定医院

学会及び社会における活動等

1982年
沖縄重度身体障害者(児)歯科治療に麻酔担当として厚生省より派遣される。
1983年
第71回世界歯学大会(FDI)ならびに第15回日本歯科医学総会にて学術講演
1988年
第5回世界歯科麻酔学会オーストラリアにて学術講演
優秀賞受賞

右の画像は、第71回FDI(世界歯学大会)学術講演の感謝状になります。

  • 日本歯科医師会会員
  • 藤沢歯科医師会会員
  • 藤沢市立滝の沢小学校校医
  • 平塚道和幼稚園園医

著書

  • 「笑気吸入鎮静法のすべて」(デンタルフォラム刊)
  • 「後悔しない抜歯」共著 デンティスト社日本医療センター発行
  • 「地域で診る障害者歯科」共著 (医歯薬出版刊)

創始者プロフィール詳細

私自身のプロフィールをエッセイ風に書いてみました。

高校入学

私は神奈川県海老名市で出生し、小、中学校の成績はそこそこでしたので、そのまま進めば高校は厚木高校だったのですが欲を出して学区外で湘南高校に入学しようと思いましたがおよばず、平塚江南高校に進学しました。

そこで陸上競技部に入って熱を入れすぎ(関東大会までは出場することはできましたがインターハイまではムリでした。)国立大学入試に失敗し、1年浪人の後、いやいやながら昭和43年4月に神奈川歯科大学に入学しました。

ちなみに私は昭和23年8月生まれです。

大学入学

6年間の大学生活は苦もなく、楽もなく(可もなく、不可もなく)何となく過ごし昭和49年2月頃になってからノンビリしていた私はまだ進路が決まっていませんでした。しっかり者の同級生はすでに前年の12月頃までには開業医に勤めるか大学に残るか決定していたようです。

当時、平塚で開業していた従姉妹の主人に相談したら、「将来開業するなら開業医に勤務するのが近道」だと言われました。なるほど理屈としてはその通りだったのですが、私は「ちょっと待てよ」と思いました。開業医に勤めてもそれなりに勉強できますが大学でなければできない事もあります。つまり開業医では限界がありますが大学では限界がないくらい勉強できるのです。そのように考えた末に(このあたりの経過の説明は不充分ですが)私は大学に残る事にしました。

さてそこで大学に残るとすれば小児歯科、保存科、補綴科、口腔外科、矯正科、麻酔科等いろいろの科がありますのでそこで悩んでいました。小児歯科、保存科。補綴科に関しては開業医に勤めても同じように勉強できるだろうから、大学でしかできない科を選ぼうと思いました。そうすると口腔外科 (癌の手術もやっていました。)あるいは矯正、麻酔(全身麻酔で手術をします。)のどれかを選ぼうとしました。

麻酔科入局

高校時代と同様に私は大学で陸上部に所属し、その陸上部の顧問を麻酔科の野口教授(前学長)がされており、大学1年から存じ上げておりました。歯学体の陸上競技で優勝したことなどから、野口先生も私を目にとめていたらしくコンパの時など「おい、星谷もっと飲みたまえ」など声をかけてくれました。野口教授の外科学および麻酔学の授業はとてもユニークで他の教授たちとは一味二味も異なるもので人生観や文化文明の香りがし私を含めて他の学生達に非常に人気のある先生でした。そうしたことから私は野口先生のもとで麻酔を勉強しようと思い麻酔科助手として採用されました。

これに先立つ昭和49年2月頃麻酔科入局の意志を伝えるために野口教授を訪れましたが、すでに帰宅された後で医局には大澤助教授(前副学長)がなにやら研究をされていました。私が入局の希望を述べると「なんのために麻酔科に入るか」と質問されました。「私は笑気吸入鎮静法と救急蘇生法を学びたい」と述べたところ「それには全身麻酔を学ぶことだね」とおっしゃいました。

歯科大学でも薬理学、生理学、解剖学なども学びますが医学部に比較すれば、これらはきわめて微々たるもので大半は歯牙および口腔に関するものばかりです。 したがって、私は当時からたとえ歯の治療をする上でも全身的な管理が必要なことを痛感していたのです。全身麻酔を学ぶうちに、救急蘇生と全身麻酔はほとんど同じである事を私はやっと理解ができましたが、それはかなり後になってのことでした。(全身麻酔と救急蘇生のことはここでは省きます。)

カルチャーショック1

麻酔科に入局した当時、私は強いカルチャーショックを受けました。野口先生もすばらしい先生でしたが大澤先生もすばらしい先生でした。野口先生は東京医科歯科大学医学部卒、大澤先生は北海道大学医学部卒と東京医科歯科大学歯学部卒というダブルライセンスをもっています。

その大澤先生が「なぜその薬を使うのか、その理由は?なぜその処置をしたのか、なぜそのように考えるのか」等々、「なぜ」「なぜ」と質問されるのです。「どこがわかるか?どこがわからないのか?」私が今まで接してきた中で、このように教育される先生はひとりもいませんでしたので、多いに戸惑うと共に自分自身の「いたならさ」「甘さ」を痛感すると同時に非常に勉強になりました。

麻酔科在局中の数年間が私にとって生涯、一番勉強した時期でした。現在の私があるのも、大澤先生に師事したことがきわめて大きいと思っています。

当時、麻酔科には2年先輩に障害者歯科で有名な緒方先生がいました。緒方先生は研究に臨床に非常に積極的な先生で私にとって見習う点が多く非常に参考になりました。

聖ヨゼフ病院研修

昭和51年から1年間、聖ヨゼフ病院歯科口腔外科に研修に派遣されました。そこには当時から障害者歯科のパイオニアとして有名な酒井信明先生が医長をされていました。酒井先生は大変に真摯で治療が終わると夕方、ご自分の室に私を呼んで下さり卒業したての新米医の私に紅茶をいれていただいたことを私は今でも忘れることはできません。

何度かそのような機会があるうちに、ある時、私はずうずしく「先生、どんな仕事でも、どんな医局にいても5年もやれば一人前になりますか」などと生意気に質問しましたところ、「君、神歯大の麻酔科に何年いても一人前にならないよ」とズバリ答えられました。つまり良い指導者がいても症例数が極めて少ないことを暗に示唆されたのです。

このことがきっかけで私は東邦大学医学部麻酔科に研修に行く事を決心しました。

東邦大学医学部麻酔科研修

東邦大学医学部麻酔科の黒須吉夫教授(当時)と神歯大の大澤先生は以前からお知り合いで、ある時、飲み屋でばったり出会って「大澤君のところからうちに研修で、人を出せないか」と言われたそうです。

東邦大学麻酔科では症例が非常に多すぎて人手が足りない、神歯大の麻酔科では人手が多すぎて症例が足りないという背景があったところから、両者の合意が成立し、神歯大の麻酔科から「だれか東邦大にいかないか」となりました。酒井先生の言葉が念頭にありましたので、私は迷うことなく手を挙げました。

昭和53年1月から約1年間(週2~3回)当時住んでいた葉山から朝6時起きで、東邦大学医学部(京急 梅屋敷駅)まで通いました。いま思えば神奈川歯科大学麻酔科が「ぬるま湯」ならば(昭和53年当時のはなしであって、今は違います。念のため)東邦大学医学部麻酔科は活気に溢れていました。何しろ、昼休みは大低10分以内で、その中で昼食をし、トイレに行き、タバコを吸い、そして再び全身麻酔を続けるといった毎日でした。

黒須教授は75歳で亡くなられましたが、私は東邦医大で研修をさせていただいて以来ずっと黒須先生に公私共にわたってお世話になりました。

カルチャーショック2

医学博士の学位も東邦大学医学部で取得しました。

黒須教授についてはここで詳述をしませんが、千葉大学の医学部を卒業後、昭和30年時代に約10年間アメリカに留学されて、日本における麻酔の「大家」であり、それ以上に荒々しい気性と繊細さを併せ持ち、しかも抜群の行動力を備えておりました、「知る人ぞ知る」と言う先生でした。

私は麻酔の研修をさせていただいた当初より、黒須先生がお亡くなりになるまでは随分叱られました。おそらく、歴代の研修医の中でも私が最も叱られた方だと思います、「のほほん」としていた私の性格は叱りやすかったのかもしれませんが、ほとんど叱かられなかった研修医もいる中で「黒須先生に叱られたかった」と述懐した方もいましたが、本気で先生から叱られた事がないからそのように言えるからであって、叱られる身にあっては、それは、耐え難い物でした。

あの黒須先生にして、叱りやすい人、叱りにくい人がいるんだと当時思いましたが、当の黒須先生にしてみれば、ご本人は私を叱咤激励していたようで、今では私は「よくぞ叱ってくれた」と非常に感謝しています。御存命中は東京の杉並から当院まで入れ歯の治療に来られたことからも、二人の師弟関係を察して頂けたらと思います。

黒須先生には当時、種々指摘されました。

「星谷、お前はいくら気を使っても気を使いすいる事はない」(のんびり屋でマイペースだった時)

「星谷、お前も医者の端くれなんだからネクタイくらいしろ」(夏の暑い時、私が30歳前半の頃)

「お前の麻酔を見ていると、まるでスローモーションのようだ」 (研修にいきたての頃、まだ麻酔がそれほど上手ではないので仕方ないではないか、上手ならば研修に行かないのだから)と当時思ったものでした。

歯科麻酔認定医・医学博士

でもお陰様で、1978年には歯科麻酔認定医も日本で86番目に取得しましたし、1982年には厚生省(当時)から沖縄重度心身障害(児)者歯科治療の全身麻酔担当医として、1ヶ月間派遣されたり1983年には活動が認められ日本で行われた第71回世界歯学大会(FDI)にて学術講演をする事も出来ました。

もともと私の性格は「のんびり屋」だったのですが、大学を卒業して全身麻酔の勉強を重ねるうちに、相当変わってきました。何にしろ全身麻酔の導入と覚醒(麻酔を醒ます時)の時は、患者さんの全身状態は刻々と変化しますので、それに対応するにはそれこそ秒単位でスムーズに処置しなければならないからです。今では他人が「もたもた治療」をするのを見ると逆にイライラするようになってしまいました。

歯科医院開業

私は1979年11月に神奈川県藤沢市湘南台で歯科医院を開業しました。
実はもっと長く大学に残って、マイペースで「歯科麻酔」の研究をしたかったのですが、小学校の校長を退職したばかりの父が(めったにうるさいことを言わない人でしたが)、「早く開業しる」とせっつくものですから、仕方がなくといっては失礼かもしれませんが、いずれ開業するのだから「少し早いが仕方がない」と思ったものでした。

全身麻酔の知識と技術を生かして、「静脈内鎮静法」を採用して、一人の患者さんに1時間から2時間位かけてすべての治療をしようと、当時計画していました。とにかく「痛くないように、」「基本通りキチンと」するように、とにかく「痛くないように」当時計画していました。患者さんの増加により、とても「静脈内鎮静法をやるどころではなくなってしまったのです。その代りとして簡便で、副作用がほとんどなくて、やさしい(プロが行えば)笑気吸入法を採用するようになったのです。

開業して約半年後の1980年には患者数は1日50人を超えるようになりましたので、口腔外科に在籍していた2年後輩を代診として採用し併せて新卒の衛生士も一人採用しました。二人の歯科医で治療しても患者さんは増加していきました。

歯科医院改装

1983年には診療室を一部改装してユニットをもう一台増やして4台にて治療を行うようになりました。

歯科衛生士

当院ではユニット1台に1名の衛生士を配置するシステム築き現在に至っています。

学術発表、全身麻酔に関する知識と技術の取得にともない、私の性格はずい分「改善」されましたが、それでも一部には「のんびり」したところが残っていることを私は自覚していましたので「日々勉強」が必要なことから、40歳までは開業しながらでも毎年1回は学会で発表するか、少なくとも1編の論文をかくことを自分に課しました。

本の出版

このような私の活動が出版社の目にとまり1985年に「笑気吸入鎮静法のすべて」(株デンタルフォラム)1990年 「地域で見る障害者歯科」(医歯薬出版)および「後悔しない抜歯」等々 共著もありますが本の出版もしました。

歯科医院新築

残念な事にと言うべきなのか、ラッキーなことと言うべきかこれ以後私は執筆しなくなりました。さらに患者数が増加してしまいそれどころではなくなってしまいました。患者数は1日70名を越え、次回の来院日は2週あるいは3週先までになってしまい、新患の予約が2~3ヶ月先まで一杯になってしまいました。

私はこのような事になってきた事に対して悩みました。何とかこの状態に対処しなければならないと考えた末に一大決心をして、1997年春に歯科医院を新築しました。治療椅子(ユニット)7台で、それぞれ1名ずつ歯科衛生士を配置し、受付2名、技工士1名、わたしを含めて歯科医師3名と言う現在の体制を構築しました。

現在、私は63歳で気力は旺盛なつもりですが、体力の衰えは隠せません。その衰えを今までの経験による知識および技術で補っているのが現状です。

そして今まで当院には何名も代診の歯科医師が勤務してくれましたが、そのほとんどが各地で開業し、いずれも盛業なのを見聞するにつけ、常に嬉しく思っています。それと同時に、地域の歯科医療に貢献し、患者さんが自分の歯に関心を持っていただくように尽力したいと願っています。

私は常に患者さんが「一生自分の歯で咬めるように」「当院で治療した歯が一生もってくれるように」をモットーに治療しています。