医師/スタッフ紹介Introduction

院長紹介

院長星谷 雄太(ほしや ゆうた)

すべての患者さんを『家族を想うように診る』。

これは星谷歯科医院のモットーであり、私が日々の診療で一番大切にしていることです。みなさんご自分の大切な人にはいつまでも健康で、生き生きと、楽しい毎日を送って欲しいと願っていらっしゃると思います。私にとりましても関わらせていただいた患者さんは家族と同じです。ついつい熱が入り、時には現状を理解していただくために「お願いですからこうしてくださいね」と、少しばかり口うるさいことを言うこともあるかもしれませんが、お口の中だけではなく生活全体を見据えてアドバイスできる歯科医師でありたいと考えています。元気の源は何でも美味しく食べられる健康なお口から。もっと快適に、もっと美味しく、もっと美しく、皆様の健康のお手伝いをさせていただければと思います。

一生自分の歯で、いつまでも美味しく食べられるように、『痛くなってからではなく痛くなる前に行く歯科医院』へ。もちろん歯が良くなるための治療も『できるだけ痛くない、怖くない』を目指しこれからもスタッフ一同研鑽してまいります。困ったこと、不安なことは何でもお気軽にご相談ください。

  • 経歴

    東京歯科大学卒業
    東京歯科大学大学院歯科保存学講座入局
    東京歯科大学大学院卒業
    歯学博士号取得
    都内歯科医院にて歯科臨床従事
    医療法人社団星谷歯科医院勤務
  • 研修実績

    歯学博士
    日本口腔インプラント学会認定100時間コース修了
    POIインプラントコース修了
    咬合・補綴治療計画セミナー修了
  • 所属学会・団体

    藤沢市歯科医師会会員
    日本歯科保存学会会員
    日本レーザー歯学会会員
    日本歯周病学会会員
    日本インプラント臨床研究会会員
    スタディグループTRUST所属

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医師のご紹介

副院長星谷 美吏(ほしや みさと)

多くの患者様が抱いている歯医者への苦手意識、恐怖心をいかに取り払えるか(取り除けるか)ということを意識しています。
治療後に食事が美味しくとれるようになったり、笑顔に自信が持てるようになったりと喜んでいただけることが何より嬉しいです。
お口の健康を通して笑顔あふれる明るく幸せな人生を送っていただけるお手伝いができるよう、日々精進してまいります。

あなたのホームドクターとして末永くお付き合いできればと思います。

  • 経歴

    神奈川歯科大学卒業
    神奈川歯科大学付属病院臨床研修医
    都内歯科医院勤務
  • 所属学会・団体

    顎咬合学会 認定医
    日本歯周病学会
    日本歯科麻酔学会

歯科医師丸山 聖人(まるやま まさと)

患者様がご自身の想いを発信しやすい空間づくりと安心できる丁寧な治療を心がけ、一人一人患者様の口の悩み、トラブルに寄り添って解決できるように日々研鑽してまいります。持てる知識、技術をその一瞬一瞬に発揮し、歯科医療を通じて皆様のお役にたちたいと思っております。

  • 経歴

    鶴見大学主席卒業
    鶴見大学歯学部附属病院臨床硏修医
    鶴見大学歯学部附属病院有床義歯補綴学講座入局
    医療法人社団星谷歯科医院勤務
  • 所属学会・団体

    日本補綴歯科学会 修練医
    日本口腔インプラント学会
    日本歯科審美学会

歯科医師星谷 佐千子(ほしや さちこ)

『歯科医師たる前に人間たれ』これは私の母校の建学精神であり私のモットーです。全ての患者さんに自分の大切な人を想うように、誠実に向き合うよう心がけております。
お口の健康が全身の健康、アンチエイジングにつながるように、治療を終えた後、一人でも多くの方が笑顔で星谷歯科医院を後にできるようにと願って診療しております。また皆様に気軽に聞いていただけるような院内の雰囲気づくりにも努めてまいります。

また私自身2児の母として子育てに奮闘中です。子育てはまだまだ未熟ですが、自分の経験も踏まえお子様のお口の健康のためにお力になれることがたくさんあると思います。
地域の皆様の快適で、健康な生活のために少しでもお役に立てれば幸いです。

  • 経歴

    東京歯科大学卒業
    東京歯科大学千葉病院総合診療科にて臨床研修課程修了
    都内歯科医院にて一般歯科臨床・在宅診療に従事
    医療法人社団星谷歯科医院勤務
  • 研修実績

    アンキロスインプラントシステムベーシックコース修了
    カルシテックインプラントシステムベーシックコース修了
    日本口腔インプラント学会認定新潟再生歯学研究会100時間研修修了
  • 所属学会・団体

    日本抗加齢医学会会員
    日本小児歯科学会会員

歯科医師森 宏美(もり ひろみ)

お口は健康への第一歩です。口腔環境は生活習慣に大きく左右されますが、歯や歯茎だけでなく、健康や精神にも影響を及ぼします。一本一本の歯の問題としてではなく、お口の全体の健康を改善し維持することで、患者さんのQOLのお手伝いをさせていただけるようなトータルケアを第一に考えて診療しています。

  • 経歴

    神奈川歯科大学卒業
    神奈川歯科大学付属病院研修医
    開業医勤務 他院分院長として勤務
    星谷歯科医院 非常勤として勤務
  • 研修実績

    2009年 スウェーデン・イェテボリ大学歯周病科 研修
    同年 Astra Tech 研修
  • 所属学会・団体

    日本臨床歯周病学会
    日本口腔インプラント学会
    AFD会員

院長のご紹介 Introduction of the director

院長のご紹介 Introduction of the director

院長 星谷 雄太(ほしや ゆうた)

はじめまして藤沢市、湘南台にあります医療法人社団星谷歯科医院、院長の星谷雄太です。
私たちのホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
当院は私の父、星谷昭三が藤沢市湘南台に開業、今年で39年(2018年7月現在)、2014年4月に私が院長として継承し現在に至ります。

『できるだけ痛くない、怖くない治療』
『痛くなってからではなく痛くなる前に行く歯科医院』は39年間、そしてこの先も変わらぬ当院のモットーです。
高い治療技術はもちろんのこと、家族皆さんで安心して通っていただけるよう、今後とも地域のホームドクターとして、また常に時代のニーズに合った歯科医院として研鑽してまいります。

趣味

トライアスロンとの出会い

小学生から大学まで続けた水泳。得意の水泳から転じて、トライアスロンに毎年挑戦しています。社会人になってから趣味を断捨離してきました。その中で唯一残ったものがトライアスロンです。トライアスロンはスイム(水泳)バイク(自転車)ラン(マラソン)の三種の複合競技。短い距離のものから長い距離のものまで様々です。2018年は国内最強大会『宮古島トライアスロン大会』、通称『ストロングマンレース』に出場。スイム3キロ、自転車175キロ、そして最後に42.195キロのフルマラソンにチャレンジ。完走を果たしました。週に2回2時間程度の少ない練習時間をひねり出し、目標の達成を目指す。体力づくりも含め、このトライアスロンへの挑戦が忍耐力、集中力up、達成感。日々の仕事の活力になっています。

プロフィール

小学生時代

私は藤沢市湘南台で生まれ育ちました。現在の湘南台は3路線が乗り入れ通勤にとても便利になりました。周りにたくさんの大学のある学生の街湘南台も私が小学生の時には今と違っ て空き地や田んぼが多く、近所に牧場もありとても長閑。
虫捕りや泥んこ遊びに明け暮れる元気な子供でした。
三人兄妹の真ん中でおばあちゃん子。とても可愛がってくれた祖父母が大好きで、家によく遊びに行っていました。
祖母の家での楽しみなこと、それは『コーヒー牛乳』。ばあちゃんちといったらこれ!パックに入った甘いコーヒ牛乳は思い出の味です。
歯科医師になった今、大きな声では言えませんが、この癖になる甘さは今でも時々恋しくなります。
また小学生から始めた水泳。毎週祖父に連れられ藤沢の金子スイミングへ。
水泳は今も続けている大切な趣味の一つです

中学時代

学生時代陸上選手だった父の影響か『走るのが早い=かっこいい』という単純な子供らしい理由で、陸上部に入りました。
とりあえず入った陸上部ですが、そこで出会った先輩と練習はそこそこに、楽しい思い出がいっぱいでした。
また体育祭に力を入れている校風でしたので、応援団の太鼓に精を出しました。

高校時代

高校時代は軽音楽部に入り、ドラムを始めました。これも今でも続いている趣味の一つです。
そしてもう一つ。
同級生からの勧めで入った水泳部。
シーズン中は寝ても覚めても水泳!一度の練習で9,000m泳ぐこともあるハードな毎日でした。水の中では自分との戦い。距離がかさむともう無意識で手と足だけが動いていると言った極限の状態になることもあります。
よく水泳は個人競技だと言われますが、実はリレーなど団体で競う種目もあります。
チームのみんなと励まし合い、労い合い目標に向かって一致団結する。
過酷な練習も続けることができました。ここでチームメイトの大切さや、やり抜く根性を教わった気がします。ここでの経験は社会人なってからの仕事観に通じるところがあります。

大学時代

高校から本格的に始めた水泳を大学でも6年間続けました。
大学の部活というとサークルのようなものを想像される方もおられるかと思いますが、東京歯科大学の水泳部は本格的な部活動で、シーズン中は山にこもり合宿を行います。
ここでは1日10キロ以上泳ぐ日もざらで合宿が終わると腕が鍛えられパンパンになります。
合宿前にゆるゆるだったTシャツが一夏終わるときつくなるほど腕が鍛えられる本気の練習の日々でした。そんな甲斐あって、私が大学1年生~6年生までオールデンタル(全日本歯科学生総合 体育大会水泳大会)で毎年東京歯科大学は優勝。個人でも100m、200m自由形で優勝を手にしていました。
ここでも素晴らしい仲間に恵まれ、目標に向かってみんなで一丸となって頑張るということの素晴らしさを、そして練習の後のみんなで食べるご飯の美味しさを実感する日々でした。
何よりの思い出は合宿中、深夜に集まって合宿所を抜け出し罪悪感の中食べるこってりラーメンの美味しさです。
今でもラーメンは私の生きがいの一つです。
美味しいと噂のお店はすぐにチェック。最近はラーメン好きが高じて自分で作るほどです。
いつか自作のラーメンを医院のスタッフに振る舞いたいです。

さてまた大学時代のお話へ。
ここまで部活動のことを中心にお話しさせていただきましたが、学業は?
はい。もちろん頑張りました。
歯科大学は一般の大学に比べかなり特殊かと思います。
歯科医療という専門職を身につけるわけですので、一般大学にあるような選択制の授業というのはありません。1限目から5限目まで全てが必修授業と実習の日々です。
また進級試験も大変厳しいものでした。
病院実習に入る5年生ともなると、各科ごとの小試験や実習、制作物の提出など多忙を極めます。
そうなるとやはり自然と大学内で同じ実習グループの仲間と過ごす時間が多くなります。
大学時代の仲間はまさに寝食共にした戦友とも呼べる大切な仲間。
今でも勉強会やセミナー、また同窓会の集まりなどで情報交換をし、お互い高め合える関係を築いています。まさに一生の友。大切な宝物です。

大学院時代

東京歯科大学を卒業後、歯科医師国家試験に合格。その後、東京歯科大学大学院保存修復学講座に入局しました。
この保存修復学講座は歯をいかに残すか(保存するか)ということに重きを置いて虫歯治療を専門とする研究室(科)です。ここでは平井教授や指導医の天谷先生のご指導のもとレーザーホワイトニングの研究、コンポコットレジンの接着、材料の理工学的な解析等の研究を行い、歯科用レーザーEr:Yagレーザーのよる組織に対する治癒の研究で学位を取得しました。
そして大学院では研究だけでなく、臨床もしっかり行います。

臨床経験が浅いこの頃、コンポジットレジン修復をした患者さんに『あまりに綺麗に治してあるので自分の元の歯が蘇ったみたいだわ』と言っていただきました。歯をいかに保存するか、いかに自然に美しくするかといった審美的な面にも通じる診療科でしたので本当に嬉しかったです。
またその頃、千葉県のお米の産地で有名な多古町に訪問歯科診療に通っていました。
脳梗塞の後遺症で手足が不自由、歯科医院に通えない患者さんに入れ歯を作ったり、口腔ケアを行なっていました。ある寝たきりの患者さんが、しっかり入れ歯を入れて「食事ができるようになって嬉しい。」とおっしゃいました。言葉を出すのがやっとな状態なのに、一生懸命『ありがとう』と伝えようとしてくださった時、歯科従事者としての存在意義を感じ感極まりました。

勤務医時代

大学を退職した後、とあるきっかけで東京都大田区のとのつか歯科医院に勤務しました。
殿塚先生は大変厳しい先生で診療に関して一切の妥協をせず、如何に患者さんを長く噛めるようにするかを常に考えていました。そこでは厳しい指導のもと多くのことを学ばせていただきました。
また勉強会を主催していて、色々な先生と出会いそこでもさらに色々と学ばせていただきました。
今でも続いていて毎月都内まで足を運び研鑽しています。また歯科治療の奥深さを知ってこの分野がとても楽しいと思うきっかけにもなりました。

星谷歯科医院へ

先代院長の父と共に、同じ臨床の場に立つ。
これがまた難しい。
臨床では父は偉大な先輩歯科医師であり、上司。
家族でありながら、男同士の牽制感、同じ臨床家としてのライバル意識、父と息子特有の微妙な感情からお互い口をつぐんでしまうこともありました。
しかし一緒に働いて父の新たな一面を見ることになります。
父の患者さんとのやりとりでとても印象深かったこと・・・・

それは『先生(父)の声は魔法のような力がありますね。その優しくて穏やかな声を聞くだけで半分治ったような気になるわ』そうおっしゃる患者さんが一人や二人ではありません。
皆父のファンなのです。
衝撃的でした。
家では口数も少なく、文章書くのが好き。親子のコミュニケーションは必ずしも得意とは言えなかった父。その父が患者さんには治療技術以外で安らぎを与える存在となっていたのです。
この辺りを境に父への見方がグッと変わりました。父から多くを学ばせてもらい、そこに新しい考え方をプラスし、自分のミッションを切り開いていこう。自分が患者さんにとって、スタッフにとっていいと思うこと、やりたいと思うこと行おうと心に決めました。まさに温故知新です。
2016年に末期の食道がんの診断を受けた父。
長い闘病生活の後、大好きな自宅で最愛妻と私に見守られ、幸せな最期でした。
父であり、偉大な先輩であり、ライバルだった父。
引き継いだ古くからの患者さんと父の話をするたびに、今でもあの心安らぐハスキーボイスが診療室の片隅から聞こえてくるような気がします。

~現在~

たんぽぽ保育園検診

歯科医師として、院長として、患者さんに、地域に、どのように貢献できるか。 私が出した答えはすべての患者さんを『家族を想うように診る』。
私が日々の診療で一番大切にしていることです。
みなさんご自分の大切な人にはいつまでも健康で、生き生きと、楽しい毎日を送って欲しいと願っていらっしゃると思います。私にとっても関わらせていただいた患者さんは家族と同じです。
もっと快適に、もっと美味しく、もっと美しく。お口の健康を通して患者さんの生活がより豊かなものになるようお手伝いすることが私のミッションだと考えています。

そしてもう一つ。スタッフとの関わり方。
歯科医院は女性が多く活躍する場です。女性は結婚や出産、子育てでどうしても職場を離れる時期があります。そしてタイミングが整えばまた復職する時期がきます。そんなとき当院がその第一 歩を踏み出すきっかけになれれば・・・
仕事を通じて自己成長し、その後ろ姿を見た子供達が未来に希望を抱けるような素敵な職場でいられたら・・・こんな素晴らしく嬉しいことはありません。

『歯科医療を通じて患者さんのお口の健康を守ること』
『地域の女性の社会進出を応援できる場であること』
『子供達が明るい未来を想像し、夢を描けるようお手本となる存在に成長できる場となること』 このミッションを叶えること、これが私を育ててくれた大好きな湘南地域への恩返しになると考えています。

創始者のご紹介 Introduction of the founder

創始者のご紹介 Introduction of the founder

創始者 故) 星谷 昭三(ほしや しょうぞう)

創始者 星谷 昭三

Profile details 創始者プロフィール詳細

詳しく見る

  • 01
    高校入学
    私は神奈川県海老名市で出生し、小、中学校の成績はそこそこでしたので、そのまま進めば高校は厚木高校だったのですが欲を出して学区外で湘南高校に入学しようと思いましたがおよばず、平塚江南高校に進学しました。

    そこで陸上競技部に入って熱を入れすぎ(関東大会までは出場することはできましたがインターハイまではムリでした。)国立大学入試に失敗し、1年浪人の後、いやいやながら昭和43年4月に神奈川歯科大学に入学しました。

    ちなみに私は昭和23年8月生まれです。
  • 02
    大学入学
    6年間の大学生活は苦もなく、楽もなく(可もなく、不可もなく)何となく過ごし昭和49年2月頃になってからノンビリしていた私はまだ進路が決まっていませんでした。しっかり者の同級生はすでに前年の12月頃までには開業医に勤めるか大学に残るか決定していたようです。

    当時、平塚で開業していた従姉妹の主人に相談したら、「将来開業するなら開業医に勤務するのが近道」だと言われました。なるほど理屈としてはその通りだったのですが、私は「ちょっと待てよ」と思いました。開業医に勤めてもそれなりに勉強できますが大学でなければできない事もあります。つまり開業医では限界がありますが大学では限界がないくらい勉強できるのです。そのように考えた末に(このあたりの経過の説明は不充分ですが)私は大学に残る事にしました。

    さてそこで大学に残るとすれば小児歯科、保存科、補綴科、口腔外科、矯正科、麻酔科等いろいろの科がありますのでそこで悩んでいました。小児歯科、保存科。補綴科に関しては開業医に勤めても同じように勉強できるだろうから、大学でしかできない科を選ぼうと思いました。そうすると口腔外科 (癌の手術もやっていました。)あるいは矯正、麻酔(全身麻酔で手術をします。)のどれかを選ぼうとしました。

  • 03
    麻酔科入局
    高校時代と同様に私は大学で陸上部に所属し、その陸上部の顧問を麻酔科の野口教授(前学長)がされており、大学1年から存じ上げておりました。歯学体の陸上競技で優勝したことなどから、野口先生も私を目にとめていたらしくコンパの時など「おい、星谷もっと飲みたまえ」など声をかけてくれました。野口教授の外科学および麻酔学の授業はとてもユニークで他の教授たちとは一味二味も異なるもので人生観や文化文明の香りがし私を含めて他の学生達に非常に人気のある先生でした。そうしたことから私は野口先生のもとで麻酔を勉強しようと思い麻酔科助手として採用されました。

    これに先立つ昭和49年2月頃麻酔科入局の意志を伝えるために野口教授を訪れましたが、すでに帰宅された後で医局には大澤助教授(前副学長)がなにやら研究をされていました。私が入局の希望を述べると「なんのために麻酔科に入るか」と質問されました。「私は笑気吸入鎮静法と救急蘇生法を学びたい」と述べたところ「それには全身麻酔を学ぶことだね」とおっしゃいました。

    歯科大学でも薬理学、生理学、解剖学なども学びますが医学部に比較すれば、これらはきわめて微々たるもので大半は歯牙および口腔に関するものばかりです。 したがって、私は当時からたとえ歯の治療をする上でも全身的な管理が必要なことを痛感していたのです。全身麻酔を学ぶうちに、救急蘇生と全身麻酔はほとんど同じである事を私はやっと理解ができましたが、それはかなり後になってのことでした。(全身麻酔と救急蘇生のことはここでは省きます。)
  • 04
    カルチャーショック1
    麻酔科に入局した当時、私は強いカルチャーショックを受けました。野口先生もすばらしい先生でしたが大澤先生もすばらしい先生でした。野口先生は東京医科歯科大学医学部卒、大澤先生は北海道大学医学部卒と東京医科歯科大学歯学部卒というダブルライセンスをもっています。

    その大澤先生が「なぜその薬を使うのか、その理由は?なぜその処置をしたのか、なぜそのように考えるのか」等々、「なぜ」「なぜ」と質問されるのです。「どこがわかるか?どこがわからないのか?」私が今まで接してきた中で、このように教育される先生はひとりもいませんでしたので、多いに戸惑うと共に自分自身の「いたならさ」「甘さ」を痛感すると同時に非常に勉強になりました。

    麻酔科在局中の数年間が私にとって生涯、一番勉強した時期でした。現在の私があるのも、大澤先生に師事したことがきわめて大きいと思っています。
    当時、麻酔科には2年先輩に障害者歯科で有名な緒方先生がいました。緒方先生は研究に臨床に非常に積極的な先生で私にとって見習う点が多く非常に参考になりました。
  • 05
    聖ヨゼフ病院研修
    昭和51年から1年間、聖ヨゼフ病院歯科口腔外科に研修に派遣されました。そこには当時から障害者歯科のパイオニアとして有名な酒井信明先生が医長をされていました。酒井先生は大変に真摯で治療が終わると夕方、ご自分の室に私を呼んで下さり卒業したての新米医の私に紅茶をいれていただいたことを私は今でも忘れることはできません。

    何度かそのような機会があるうちに、ある時、私はずうずしく「先生、どんな仕事でも、どんな医局にいても5年もやれば一人前になりますか」などと生意気に質問しましたところ、「君、神歯大の麻酔科に何年いても一人前にならないよ」とズバリ答えられました。つまり良い指導者がいても症例数が極めて少ないことを暗に示唆されたのです。

    このことがきっかけで私は東邦大学医学部麻酔科に研修に行く事を決心しました。
  • 06
    東邦大学医学部麻酔科研修

    東邦大学医学部麻酔科の黒須吉夫教授(当時)と神歯大の大澤先生は以前からお知り合いで、ある時、飲み屋でばったり出会って「大澤君のところからうちに研修で、人を出せないか」と言われたそうです。

    東邦大学麻酔科では症例が非常に多すぎて人手が足りない、神歯大の麻酔科では人手が多すぎて症例が足りないという背景があったところから、両者の合意が成立し、神歯大の麻酔科から「だれか東邦大にいかないか」となりました。酒井先生の言葉が念頭にありましたので、私は迷うことなく手を挙げました。

    昭和53年1月から約1年間(週2~3回)当時住んでいた葉山から朝6時起きで、東邦大学医学部(京急 梅屋敷駅)まで通いました。いま思えば神奈川歯科大学麻酔科が「ぬるま湯」ならば(昭和53年当時のはなしであって、今は違います。念のため)東邦大学医学部麻酔科は活気に溢れていました。何しろ、昼休みは大低10分以内で、その中で昼食をし、トイレに行き、タバコを吸い、そして再び全身麻酔を続けるといった毎日でした。

    黒須教授は75歳で亡くなられましたが、私は東邦医大で研修をさせていただいて以来ずっと黒須先生に公私共にわたってお世話になりました。
  • 07
    カルチャーショック2

    医学博士の学位も東邦大学医学部で取得しました。

    黒須教授についてはここで詳述をしませんが、千葉大学の医学部を卒業後、昭和30年時代に約10年間アメリカに留学されて、日本における麻酔の「大家」であり、それ以上に荒々しい気性と繊細さを併せ持ち、しかも抜群の行動力を備えておりました、「知る人ぞ知る」と言う先生でした。

    私は麻酔の研修をさせていただいた当初より、黒須先生がお亡くなりになるまでは随分叱られました。おそらく、歴代の研修医の中でも私が最も叱られた方だと思います、「のほほん」としていた私の性格は叱りやすかったのかもしれませんが、ほとんど叱かられなかった研修医もいる中で「黒須先生に叱られたかった」と述懐した方もいましたが、本気で先生から叱られた事がないからそのように言えるからであって、叱られる身にあっては、それは、耐え難い物でした。

    あの黒須先生にして、叱りやすい人、叱りにくい人がいるんだと当時思いましたが、当の黒須先生にしてみれば、ご本人は私を叱咤激励していたようで、今では私は「よくぞ叱ってくれた」と非常に感謝しています。御存命中は東京の杉並から当院まで入れ歯の治療に来られたことからも、二人の師弟関係を察して頂けたらと思います。

    黒須先生には当時、種々指摘されました。

    「星谷、お前はいくら気を使っても気を使いすいる事はない」(のんびり屋でマイペースだった時)

    「星谷、お前も医者の端くれなんだからネクタイくらいしろ」(夏の暑い時、私が30歳前半の頃)

    「お前の麻酔を見ていると、まるでスローモーションのようだ」 (研修にいきたての頃、まだ麻酔がそれほど上手ではないので仕方ないではないか、上手ならば研修に行かないのだから)と当時思ったものでした。
  • 08
    歯科麻酔認定医・医学博士
    でもお陰様で、1978年には歯科麻酔認定医も日本で86番目に取得しましたし、1982年には厚生省(当時)から沖縄重度心身障害(児)者歯科治療の全身麻酔担当医として、1ヶ月間派遣されたり1983年には活動が認められ日本で行われた第71回世界歯学大会(FDI)にて学術講演をする事も出来ました。

    もともと私の性格は「のんびり屋」だったのですが、大学を卒業して全身麻酔の勉強を重ねるうちに、相当変わってきました。何にしろ全身麻酔の導入と覚醒(麻酔を醒ます時)の時は、患者さんの全身状態は刻々と変化しますので、それに対応するにはそれこそ秒単位でスムーズに処置しなければならないからです。今では他人が「もたもた治療」をするのを見ると逆にイライラするようになってしまいました。
  • 09
    歯科医院開業
    私は1979年11月に神奈川県藤沢市湘南台で歯科医院を開業しました。
    実はもっと長く大学に残って、マイペースで「歯科麻酔」の研究をしたかったのですが、小学校の校長を退職したばかりの父が(めったにうるさいことを言わない人でしたが)、「早く開業しる」とせっつくものですから、仕方がなくといっては失礼かもしれませんが、いずれ開業するのだから「少し早いが仕方がない」と思ったものでした。

    全身麻酔の知識と技術を生かして、「静脈内鎮静法」を採用して、一人の患者さんに1時間から2時間位かけてすべての治療をしようと、当時計画していました。とにかく「痛くないように、」「基本通りキチンと」するように、とにかく「痛くないように」当時計画していました。患者さんの増加により、とても「静脈内鎮静法をやるどころではなくなってしまったのです。その代りとして簡便で、副作用がほとんどなくて、やさしい(プロが行えば)笑気吸入法を採用するようになったのです。

    開業して約半年後の1980年には患者数は1日50人を超えるようになりましたので、口腔外科に在籍していた2年後輩を代診として採用し併せて新卒の衛生士も一人採用しました。二人の歯科医で治療しても患者さんは増加していきました。
  • 10
    歯科医院改装
    1983年には診療室を一部改装してユニットをもう一台増やして4台にて治療を行うようになりました。
  • 11
    歯科衛生士

    当院ではユニット1台に1名の衛生士を配置するシステム築き現在に至っています。

    学術発表、全身麻酔に関する知識と技術の取得にともない、私の性格はずい分「改善」されましたが、それでも一部には「のんびり」したところが残っていることを私は自覚していましたので「日々勉強」が必要なことから、40歳までは開業しながらでも毎年1回は学会で発表するか、少なくとも1編の論文をかくことを自分に課しました。

    私は麻酔の研修をさせていただいた当初より、黒須先生がお亡くなりになるまでは随分叱られました。おそらく、歴代の研修医の中でも私が最も叱られた方だと思います、「のほほん」としていた私の性格は叱りやすかったのかもしれませんが、ほとんど叱かられなかった研修医もいる中で「黒須先生に叱られたかった」と述懐した方もいましたが、本気で先生から叱られた事がないからそのように言えるからであって、叱られる身にあっては、それは、耐え難い物でした。

    あの黒須先生にして、叱りやすい人、叱りにくい人がいるんだと当時思いましたが、当の黒須先生にしてみれば、ご本人は私を叱咤激励していたようで、今では私は「よくぞ叱ってくれた」と非常に感謝しています。御存命中は東京の杉並から当院まで入れ歯の治療に来られたことからも、二人の師弟関係を察して頂けたらと思います。

    黒須先生には当時、種々指摘されました。

    「星谷、お前はいくら気を使っても気を使いすいる事はない」(のんびり屋でマイペースだった時)

    「星谷、お前も医者の端くれなんだからネクタイくらいしろ」(夏の暑い時、私が30歳前半の頃)

    「お前の麻酔を見ていると、まるでスローモーションのようだ」 (研修にいきたての頃、まだ麻酔がそれほど上手ではないので仕方ないではないか、上手ならば研修に行かないのだから)と当時思ったものでした。
  • 12
    本の出版
    このような私の活動が出版社の目にとまり1985年に「笑気吸入鎮静法のすべて」(株デンタルフォラム)1990年 「地域で見る障害者歯科」(医歯薬出版)および「後悔しない抜歯」等々 共著もありますが本の出版もしました。
  • 13
    歯科医院新築
    残念な事にと言うべきなのか、ラッキーなことと言うべきかこれ以後私は執筆しなくなりました。さらに患者数が増加してしまいそれどころではなくなってしまいました。患者数は1日70名を越え、次回の来院日は2週あるいは3週先までになってしまい、新患の予約が2~3ヶ月先まで一杯になってしまいました。

    私はこのような事になってきた事に対して悩みました。何とかこの状態に対処しなければならないと考えた末に一大決心をして、1997年春に歯科医院を新築しました。治療椅子(ユニット)7台で、それぞれ1名ずつ歯科衛生士を配置し、受付2名、技工士1名、わたしを含めて歯科医師3名と言う現在の体制を構築しました。

    現在、私は63歳で気力は旺盛なつもりですが、体力の衰えは隠せません。その衰えを今までの経験による知識および技術で補っているのが現状です。

    そして今まで当院には何名も代診の歯科医師が勤務してくれましたが、そのほとんどが各地で開業し、いずれも盛業なのを見聞するにつけ、常に嬉しく思っています。それと同時に、地域の歯科医療に貢献し、患者さんが自分の歯に関心を持っていただくように尽力したいと願っています。

    私は常に患者さんが「一生自分の歯で咬めるように」「当院で治療した歯が一生もってくれるように」をモットーに治療しています。

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