院長 星谷 雄太
はじめまして藤沢市、湘南台にあります医療法人社団星谷歯科医院、院長の星谷雄太です。
私たちのホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
当院は私の父、星谷昭三が藤沢市湘南台に開業、今年で39年(2018年7月現在)、2014年4月に私が院長として継承し現在に至ります。
『できるだけ痛くない、怖くない治療』
『痛くなってからではなく痛くなる前に行く歯科医院』は39年間、そしてこの先も変わらぬ当院のモットーです。
高い治療技術はもちろんのこと、家族皆さんで安心して通っていただけるよう、今後とも地域のホームドクターとして、また常に時代のニーズに合った歯科医院として研鑽してまいります。
趣味
トライアスロンとの出会い
小学生から大学まで続けた水泳。得意の水泳から転じて、トライアスロンに毎年挑戦しています。社会人になってから趣味を断捨離してきました。その中で唯一残ったものがトライアスロンです。トライアスロンはスイム(水泳)バイク(自転車)ラン(マラソン)の三種の複合競技。短い距離のものから長い距離のものまで様々です。2018年は国内最強大会『宮古島トライアスロン大会』、通称『ストロングマンレース』に出場。スイム3キロ、自転車175キロ、そして最後に42.195キロのフルマラソンにチャレンジ。完走を果たしました。週に2回2時間程度の少ない練習時間をひねり出し、目標の達成を目指す。体力づくりも含め、このトライアスロンへの挑戦が忍耐力、集中力up、達成感。日々の仕事の活力になっています。
プロフィール
小学生時代
私は藤沢市湘南台で生まれ育ちました。現在の湘南台は3路線が乗り入れ通勤にとても便利になりました。周りにたくさんの大学のある学生の街湘南台も私が小学生の時には今と違っ
て空き地や田んぼが多く、近所に牧場もありとても長閑。
虫捕りや泥んこ遊びに明け暮れる元気な子供でした。
三人兄妹の真ん中でおばあちゃん子。とても可愛がってくれた祖父母が大好きで、家によく遊びに行っていました。
祖母の家での楽しみなこと、それは『コーヒー牛乳』。ばあちゃんちといったらこれ!パックに入った甘いコーヒ牛乳は思い出の味です。
歯科医師になった今、大きな声では言えませんが、この癖になる甘さは今でも時々恋しくなります。
また小学生から始めた水泳。毎週祖父に連れられ藤沢の金子スイミングへ。
水泳は今も続けている大切な趣味の一つです
中学時代
学生時代陸上選手だった父の影響か『走るのが早い=かっこいい』という単純な子供らしい理由で、陸上部に入りました。
とりあえず入った陸上部ですが、そこで出会った先輩と練習はそこそこに、楽しい思い出がいっぱいでした。
また体育祭に力を入れている校風でしたので、応援団の太鼓に精を出しました。
高校時代
高校時代は軽音楽部に入り、ドラムを始めました。これも今でも続いている趣味の一つです。
そしてもう一つ。
同級生からの勧めで入った水泳部。
シーズン中は寝ても覚めても水泳!一度の練習で9,000m泳ぐこともあるハードな毎日でした。水の中では自分との戦い。距離がかさむともう無意識で手と足だけが動いていると言った極限の状態になることもあります。
よく水泳は個人競技だと言われますが、実はリレーなど団体で競う種目もあります。
チームのみんなと励まし合い、労い合い目標に向かって一致団結する。
過酷な練習も続けることができました。ここでチームメイトの大切さや、やり抜く根性を教わった気がします。ここでの経験は社会人なってからの仕事観に通じるところがあります。
大学時代
高校から本格的に始めた水泳を大学でも6年間続けました。
大学の部活というとサークルのようなものを想像される方もおられるかと思いますが、東京歯科大学の水泳部は本格的な部活動で、シーズン中は山にこもり合宿を行います。
ここでは1日10キロ以上泳ぐ日もざらで合宿が終わると腕が鍛えられパンパンになります。
合宿前にゆるゆるだったTシャツが一夏終わるときつくなるほど腕が鍛えられる本気の練習の日々でした。そんな甲斐あって、私が大学1年生~6年生までオールデンタル(全日本歯科学生総合
体育大会水泳大会)で毎年東京歯科大学は優勝。個人でも100m、200m自由形で優勝を手にしていました。
ここでも素晴らしい仲間に恵まれ、目標に向かってみんなで一丸となって頑張るということの素晴らしさを、そして練習の後のみんなで食べるご飯の美味しさを実感する日々でした。
何よりの思い出は合宿中、深夜に集まって合宿所を抜け出し罪悪感の中食べるこってりラーメンの美味しさです。
今でもラーメンは私の生きがいの一つです。
美味しいと噂のお店はすぐにチェック。最近はラーメン好きが高じて自分で作るほどです。
いつか自作のラーメンを医院のスタッフに振る舞いたいです。
さてまた大学時代のお話へ。
ここまで部活動のことを中心にお話しさせていただきましたが、学業は?
はい。もちろん頑張りました。
歯科大学は一般の大学に比べかなり特殊かと思います。
歯科医療という専門職を身につけるわけですので、一般大学にあるような選択制の授業というのはありません。1限目から5限目まで全てが必修授業と実習の日々です。
また進級試験も大変厳しいものでした。
病院実習に入る5年生ともなると、各科ごとの小試験や実習、制作物の提出など多忙を極めます。
そうなるとやはり自然と大学内で同じ実習グループの仲間と過ごす時間が多くなります。
大学時代の仲間はまさに寝食共にした戦友とも呼べる大切な仲間。
今でも勉強会やセミナー、また同窓会の集まりなどで情報交換をし、お互い高め合える関係を築いています。まさに一生の友。大切な宝物です。
大学院時代
東京歯科大学を卒業後、歯科医師国家試験に合格。その後、東京歯科大学大学院保存修復学講座に入局しました。
この保存修復学講座は歯をいかに残すか(保存するか)ということに重きを置いて虫歯治療を専門とする研究室(科)です。ここでは平井教授や指導医の天谷先生のご指導のもとレーザーホワイトニングの研究、コンポコットレジンの接着、材料の理工学的な解析等の研究を行い、歯科用レーザーEr:Yagレーザーのよる組織に対する治癒の研究で学位を取得しました。
そして大学院では研究だけでなく、臨床もしっかり行います。
臨床経験が浅いこの頃、コンポジットレジン修復をした患者さんに『あまりに綺麗に治してあるので自分の元の歯が蘇ったみたいだわ』と言っていただきました。歯をいかに保存するか、いかに自然に美しくするかといった審美的な面にも通じる診療科でしたので本当に嬉しかったです。
またその頃、千葉県のお米の産地で有名な多古町に訪問歯科診療に通っていました。
脳梗塞の後遺症で手足が不自由、歯科医院に通えない患者さんに入れ歯を作ったり、口腔ケアを行なっていました。ある寝たきりの患者さんが、しっかり入れ歯を入れて「食事ができるようになって嬉しい。」とおっしゃいました。言葉を出すのがやっとな状態なのに、一生懸命『ありがとう』と伝えようとしてくださった時、歯科従事者としての存在意義を感じ感極まりました。
勤務医時代
大学を退職した後、とあるきっかけで東京都大田区のとのつか歯科医院に勤務しました。
殿塚先生は大変厳しい先生で診療に関して一切の妥協をせず、如何に患者さんを長く噛めるようにするかを常に考えていました。そこでは厳しい指導のもと多くのことを学ばせていただきました。
また勉強会を主催していて、色々な先生と出会いそこでもさらに色々と学ばせていただきました。
今でも続いていて毎月都内まで足を運び研鑽しています。また歯科治療の奥深さを知ってこの分野がとても楽しいと思うきっかけにもなりました。
星谷歯科医院へ
先代院長の父と共に、同じ臨床の場に立つ。
これがまた難しい。
臨床では父は偉大な先輩歯科医師であり、上司。
家族でありながら、男同士の牽制感、同じ臨床家としてのライバル意識、父と息子特有の微妙な感情からお互い口をつぐんでしまうこともありました。
しかし一緒に働いて父の新たな一面を見ることになります。
父の患者さんとのやりとりでとても印象深かったこと・・・・
それは『先生(父)の声は魔法のような力がありますね。その優しくて穏やかな声を聞くだけで半分治ったような気になるわ』そうおっしゃる患者さんが一人や二人ではありません。
皆父のファンなのです。
衝撃的でした。
家では口数も少なく、文章書くのが好き。親子のコミュニケーションは必ずしも得意とは言えなかった父。その父が患者さんには治療技術以外で安らぎを与える存在となっていたのです。
この辺りを境に父への見方がグッと変わりました。父から多くを学ばせてもらい、そこに新しい考え方をプラスし、自分のミッションを切り開いていこう。自分が患者さんにとって、スタッフにとっていいと思うこと、やりたいと思うこと行おうと心に決めました。まさに温故知新です。
2016年に末期の食道がんの診断を受けた父。
長い闘病生活の後、大好きな自宅で最愛妻と私に見守られ、幸せな最期でした。
父であり、偉大な先輩であり、ライバルだった父。
引き継いだ古くからの患者さんと父の話をするたびに、今でもあの心安らぐハスキーボイスが診療室の片隅から聞こえてくるような気がします。
~現在~
たんぽぽ保育園検診
歯科医師として、院長として、患者さんに、地域に、どのように貢献できるか。
私が出した答えはすべての患者さんを『家族を想うように診る』。
私が日々の診療で一番大切にしていることです。
みなさんご自分の大切な人にはいつまでも健康で、生き生きと、楽しい毎日を送って欲しいと願っていらっしゃると思います。私にとっても関わらせていただいた患者さんは家族と同じです。
もっと快適に、もっと美味しく、もっと美しく。お口の健康を通して患者さんの生活がより豊かなものになるようお手伝いすることが私のミッションだと考えています。
そしてもう一つ。スタッフとの関わり方。
歯科医院は女性が多く活躍する場です。女性は結婚や出産、子育てでどうしても職場を離れる時期があります。そしてタイミングが整えばまた復職する時期がきます。そんなとき当院がその第一
歩を踏み出すきっかけになれれば・・・
仕事を通じて自己成長し、その後ろ姿を見た子供達が未来に希望を抱けるような素敵な職場でいられたら・・・こんな素晴らしく嬉しいことはありません。
『歯科医療を通じて患者さんのお口の健康を守ること』
『地域の女性の社会進出を応援できる場であること』
『子供達が明るい未来を想像し、夢を描けるようお手本となる存在に成長できる場となること』
このミッションを叶えること、これが私を育ててくれた大好きな湘南地域への恩返しになると考えています。
創始者 故) 星谷 昭三
さてそこで大学に残るとすれば小児歯科、保存科、補綴科、口腔外科、矯正科、麻酔科等いろいろの科がありますのでそこで悩んでいました。小児歯科、保存科。補綴科に関しては開業医に勤めても同じように勉強できるだろうから、大学でしかできない科を選ぼうと思いました。そうすると口腔外科 (癌の手術もやっていました。)あるいは矯正、麻酔(全身麻酔で手術をします。)のどれかを選ぼうとしました。
東邦大学医学部麻酔科の黒須吉夫教授(当時)と神歯大の大澤先生は以前からお知り合いで、ある時、飲み屋でばったり出会って「大澤君のところからうちに研修で、人を出せないか」と言われたそうです。
東邦大学麻酔科では症例が非常に多すぎて人手が足りない、神歯大の麻酔科では人手が多すぎて症例が足りないという背景があったところから、両者の合意が成立し、神歯大の麻酔科から「だれか東邦大にいかないか」となりました。酒井先生の言葉が念頭にありましたので、私は迷うことなく手を挙げました。
医学博士の学位も東邦大学医学部で取得しました。
黒須教授についてはここで詳述をしませんが、千葉大学の医学部を卒業後、昭和30年時代に約10年間アメリカに留学されて、日本における麻酔の「大家」であり、それ以上に荒々しい気性と繊細さを併せ持ち、しかも抜群の行動力を備えておりました、「知る人ぞ知る」と言う先生でした。
当院ではユニット1台に1名の衛生士を配置するシステム築き現在に至っています。
学術発表、全身麻酔に関する知識と技術の取得にともない、私の性格はずい分「改善」されましたが、それでも一部には「のんびり」したところが残っていることを私は自覚していましたので「日々勉強」が必要なことから、40歳までは開業しながらでも毎年1回は学会で発表するか、少なくとも1編の論文をかくことを自分に課しました。
そして今まで当院には何名も代診の歯科医師が勤務してくれましたが、そのほとんどが各地で開業し、いずれも盛業なのを見聞するにつけ、常に嬉しく思っています。それと同時に、地域の歯科医療に貢献し、患者さんが自分の歯に関心を持っていただくように尽力したいと願っています。
私は常に患者さんが「一生自分の歯で咬めるように」「当院で治療した歯が一生もってくれるように」をモットーに治療しています。